妻イヴォンヌへの誕生日プレゼント
南フランスのコート・ダジュール、地中海を眼下に望むカップ・マルタン。ここに建つ質素な丸太小屋風の建物「キャバノン(Cabanon)」は、ル・コルビュジエが最愛の妻イヴォンヌの誕生日に贈ったプレゼントでした。
世界中で首都建設や巨大プロジェクトを手がけていた巨匠が、自分と妻のためだけに設計したのは、キッチンもトイレもシャワーもない(これらは必要ならば隣接する友人レイ・ブデュ氏の食堂を使うか、自然の中で済ませるスタイルでした)、驚くほどストイックで小さな空間でした。しかし彼はここを「私のお城(Mon
Château)」と呼び、亡くなるまでの毎年8月、夏休みの全てをこの小屋で過ごしました。ここは彼にとって、建築家という重たい鎧を脱ぎ捨て、ただの人間「シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ」に戻れる唯一の聖域だったのです。
わずか45分で設計された傑作
建築史における有名な伝説によれば、コルビジェはこの小屋の設計構想を、1951年12月30日、隣接する食堂「エトワール・ド・メール(ヒトデ軒)」のテーブルで、妻へのプレゼントとしてわずか45分の間にスケッチブックに描き上げたと言われています。
もちろん、それは単なる思いつきではありません。彼の中で長年温められてきた「最小限の居住空間とは何か?」という問いに対する答えが、妻への愛という触媒を得て一気に結晶化した瞬間でした。このスケッチには、彼の建築思想の核心である「モデュロール」の寸法体系がすでに完璧な形で織り込まれており、即興のようでいて、極めて論理的で緻密な計算に基づいたマスタープランだったのです。
モデュロールが凝縮された3.66mの正方形
小屋の内部プランは、一辺3.66メートルの正方形を基本としています。この「3.66m」という数字も、天井高の「2.26m」も、全て彼の人体寸法体系「モデュロール(黄金比)」に基づいています。天井高2.26メートルは、身長183cmの人間が手を真上に伸ばした時の高さであり、圧迫感を与えず、かつ空間を無駄にしないギリギリの高さです。
狭い空間にもかかわらず、中に入ると窮屈さを感じないのは、入り口から奥へと続く螺旋状の動線計画と、窓の位置、視線の抜け方が完璧にコントロールされているからです。この小屋は、彼が提唱し続けた「人間にとって最も調和のとれた空間比率」の実物大の実験検証モデルでもありました。
全ての家具が作り付けられた「住むための家具」
内部にはベッド、作業用テーブル、収納棚、小さな洗面台、そしてトイレ代わりの穴(!)が、まるで寄木細工のパズルのように隙間なく組み込まれています。これらは個別の家具として置かれているのではなく、建築の一部として一体化し、機能しています。
例えば、ベッドの下はスーツケースを収納するスペースになっており、天井には換気用の小窓(エアレーター)があり、窓の扉の裏側には鏡が貼られ、景色を室内に反射させます。内壁のベニヤ板や、彼自身が描いた色鮮やかな壁画、および丸太の外壁。これらすべてが、まるで船のキャビン(船室)のように機能的で、同時に洞窟のように原初的で温かい。まさに「住むための機械」ならぬ「住むための家具」と呼ぶにふさわしい空間です。
巨匠が最後に求めた「簡素な豊かさ」
「私はここでなら死ねる。実に気分のいい場所だ」。コルビジェはそう語り、実際に1965年の夏、この小屋の前の海で遊泳中に心臓発作を起こし、帰らぬ人となりました。享年77歳。
物質的な贅沢や社会的地位を極めた巨匠が、人生の最後に辿り着いたのは、太陽と海、松林の香り、および愛する人との静かな時間だけがある、この4坪の小屋でした。キャバノンは、現代を生きる私たちに鋭く問いかけます。「本当に豊かな暮らしに必要な広さは、実はこれだけで十分なのではないか?」と。文明の利便性から距離を置き、自然と一体化する簡素な暮らしこそが、人間性を回復させる最高のラグジュアリーなのかもしれません。