キュビズムを超える:「純粋主義(ピュリスム)」の共同宣言
ル・コルビジェが建築家として世界的な成功を収める直前の1910年代後半のパリ。彼はまだスイスから出てきた無名の画家志望の青年シャルル=エドゥアール・ジャンヌレでした。この時期、彼の運命を大きく変えたのが、すでにパリの美術界でキャリアを築いていた年上の画家アメデ・オザンファン(Amedee Ozenfant)との出会いでした。知的に意気投合した二人は、ピカソらのキュビズム(立体派)が装飾的で難解になりすぎていると批判し、機械時代の到来に合わせた合理的で幾何学的な新しい絵画・造形美学「純粋主義(ピュリスム、Purism)」を共同で提唱し始めました。この二人の並外れた友情と蜜月関係こそが、コルビジェを世界へと押し上げる跳躍台となったのです。
雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』:二人で作った新時代のメディア発信基地
1920年、オザンファンとコルビジェ(当時はジャンヌレ)は、モダニズム思想を社会に一気に普及させるためのアヴァンギャルド総合芸術雑誌『エスプリ・ヌーヴォー(L'Esprit Nouveau)』を創刊しました。オザンファンは洗練された編集技術と言葉で雑誌の土台を作り、コルビジェは狂気的な情熱で建築や都市計画のコラムを次々と執筆しました。資金繰りに苦しみながらも、二人はお互いの論文を添削し合い、共同執筆の署名として様々なペンネームを使い分けました。この雑誌の編集室は、当時のパリの最先端の知性が集まるサロンとなり、彼らは二人三脚で近代芸術界の新たなオピニオンリーダーとしての地位を急速に確立していきました。
「ル・コルビジェ」誕生の裏に隠された、オザンファンの忠告と葛藤
実は、私たちが今日知っている「ル・コルビジェ(Le Corbusier)」という世界的に有名なペンネームが誕生したのも、オザンファンのアイデアと後押しがきっかけでした。雑誌の建築コラムを執筆する際、オザンファンは「君は画家としては本名のジャンヌレ名義で作品を発表しているのだから、建築のコラムは別人格を装ってペンネームで書いた方が、雑誌としての客観性(複数の執筆者がいるように見える効果)が出て良い」とアドバイスしたのです。そこでコルビジェは、母方の祖父の旧姓である「ル・コルベジエ(Lecorbesier)」をもじり、漆黒の「カラス(Corbeau)」を連想させる響きを持つ「ル・コルビジェ」と署名し始めました。この名前は瞬く間に建築界のアイコンとなりましたが、それは同時に二人の関係に影を落とすことになります。
画記名のサインをめぐる対立:友情を切り裂いた「絵画の著作権問題」
二人の友情が致命的な崩壊を迎えたのは、名声の配分と「絵画のサイン(著作権)」をめぐる問題でした。コルビジェは、建築家として注目を集める一方で、午前中の絵画制作においてもオザンファンと対等な「画家」として認められたいと強く望んでいました。しかし、オザンファンは「君に絵画の基本(ピュリスムの技法)を教えたのは私であり、君はまだ私の弟子のようなものだ」というプライドを捨てられませんでした。彼らが1920年代前半に開催した共同展覧会において、コルビジェの描いた優れた絵画に対し、オザンファンが「二人の共同署名」に書き換えるよう要求したこと、あるいは絵画の売却代金の分配を巡って激しい口論が発生しました。名声を独占し始めたコルビジェに対するオザンファンの嫉妬と、師から自立したいコルビジェの反発が、ついに修復不可能な泥沼の対立へと発展したのです。
決別後のそれぞれの道と、モダニズム美術史における彼らの遺産
1925年、二人は絶交し、雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』も廃刊となりました。オザンファンはパリを離れ、のちにロンドンやニューヨークに移住して高名な美術教育者として活動を続けました。一方のコルビジェは、「ル・コルビジェ」の名前で建築界の絶対的なトップスターへと昇り詰めました。二人はその後、生涯一度も和解することはありませんでしたが、決別後もコルビジェは、午前中の絵画制作を死ぬまで毎日続けました。彼にとって絵画とは、かつてオザンファンと共に情熱を燃やし、美の幾何学ルールを追い求めた「青春の原点」そのものであったのです。二人の友情は壊れましたが、共創したピュリスムの美学は、近代建築の礎として不滅の光を放ち続けています。