前川・坂倉・吉阪—コルビジェの思想を日本に移植した3大弟子の軌跡と西洋美術館

前川・坂倉・吉阪—コルビジェの思想を日本に移植した3大弟子の軌跡と西洋美術館

パリの35番地のアトリエから始まった日本のモダニズム

東京・上野恩賜公園の緑の中に建つ、世界文化遺産「国立西洋美術館」。この日本のモダニズム建築の金字塔は、ル・コルビジェが設計した日本唯一の建物ですが、その実施設計や現場監理を支え、実際に完成へと導いたのは、彼のパリのアトリエで直接学んだ3人の日本人建築家たちでした。前川國男、坂倉準三、吉阪隆正。彼らは昭和初期から戦後にかけて、パリのセーヌ川沿いにあるセーヴル通り35番地のコルビジェのアトリエの門を叩き、巨匠の息吹を間近で吸い込みました。そして、そこで得た最先端の建築思想とヒューマニズムを日本へと持ち帰り、敗戦後の復興期にあった日本の国土に、数多くの力強く美しい建築群を築き上げたのです。

前川國男:日本の木造伝統とモダニズムの融合を試みた先駆者

3人の中で最も早く、1928年にパリへ渡ったのが前川國男でした。前川がアトリエに到着した日は、ちょうどコルビジェが「サヴォア邸」の設計図を引いている真っ最中であり、前川は近代建築の五原則が誕生する瞬間に立ち会うことになりました。約2年間のアトリエ生活を経て帰国した前川は、日本の伝統的な木造建築の美意識と、ヨーロッパの合理的なコンクリートラーメン構造をいかに高次元で融合させるかという課題に一生を捧げました。彼は、師の「打ち放しコンクリート」の手法を日本に定着させながらも、日本の過酷な雨風に耐えるための独自のタイルの開発や、機能的なプレハブ住宅「前川自邸」などを設計し、日本モダニズムの確固たる骨組みを構築したのです。

坂倉準三:パリ万博日本館で世界を驚かせた愛弟子

前川に続き、1931年にパリへと渡ったのが坂倉準三でした。坂倉はアトリエでメキメキと実力を発揮し、日本人として初めてチーフ(チーフドラフツマン)の地位に上り詰めました。彼の最大の功績は、1937年のパリ万国博覧会における日本館の設計です。コルビジェのピロティやスチールとガラスの構成を用いながら、日本の障子や縁側のような空間の透過性を見事に表現した日本館は、万博の建築部門で最高賞(グランプリ)を受賞し、世界中から「日本に真の近代建築が生まれた」と大絶賛されました。坂倉は帰国後も、鎌倉の神奈川県立近代美術館など、光と風が通り抜けるエレガントで人間味のあるモダン建築を数多く残し、都市に開かれた公共空間のあり方を提示しました。

吉阪隆正:ヒューマニズムと土着性を追求した教育者

戦後の1950年にアトリエに参加し、後期コルビジェの彫刻的なコンクリート建築やインドの都市計画の現場を体験したのが吉阪隆正でした。吉阪は、コルビジェのスケッチやエッセイの優れた翻訳者としても知られており、巨匠の難解な哲学を日本人にわかりやすく伝えました。建築家としての吉阪は、単に師のスタイルを模倣するのではなく、東北地方の豪雪地帯に建つ「八王子セミナーハウス」など、大地の隆起や土着的な生命力を感じさせる荒々しいコンクリート表現(ブルータリズム)を展開しました。また、早稲田大学で多くの優れた後進を育て、エコロジーや登山家としての視点を活かした、独自のヒューマニスティックな建築教育を行いました。

師の遺志を継いだ「国立西洋美術館」という金字塔

1950年代後半、フランス政府から日本へ松方コレクションが返還されるにあたり、その保存展示施設としてル・コルビジェが建築の設計を行うことが決定しました。しかし、多忙を極め日本の気候や細かな規制に疎かった師に代わり、基本設計図を元に現場で施工が可能な詳細図面を引き、工事の監督を行ったのは、かつての3大弟子である前川、坂倉、吉阪の共同設計チームでした。彼らは、師が提唱した「無限成長美術館」の螺旋の動線や、モデュロールに基づいた展示室、そしてピロティのエントランスを日本の建築基準に適合させながら、完璧なディテールで形にしました。国立西洋美術館は、西洋の偉大なマスターと、その精神を日本に根付かせようとした愛弟子たちとの、国境を越えた愛と尊敬の記念碑的な金字塔なのです。