パリ中心部を消去するアヴァンギャルドな挑戦
歴史的な建物や美しい凱旋門、石畳の小路が織りなすロマンチックな世界屈指の観光都市パリ。しかし、もし今から約100年前に提案された、ある建築家の壮大なアイデアが採用されていたら、現在のパリ中心部(マレ地区など)はすべて更地となり、代わりに巨大なコンクリートの十字型超高層ビルが規則正しく並ぶ、SF映画のような光景に変わっていたかもしれません。その計画の名は「ヴォワザン計画(Plan Voisin)」。提案したのは他ならぬ近代建築の巨匠ル・コルビジェでした。この計画は、歴史あるパリの街並みを大量破壊して近代的なグリッド都市に置き換えるという、一見すると「狂気」とも思える過激なプロポーザルでした。なぜ彼はこのような計画を掲げたのか、その都市計画理論の全貌と意図に迫ります。
なぜ狂気の計画が必要だったのか?1920年代のパリの不衛生な現実
ヴォワザン計画を単なる「歴史破壊の狂気」として片付けることはできません。当時、19世紀の産業革命から人口が急増していたパリの中心部は、深刻な問題を抱えていました。下水道は不十分で、狭く暗い路地にはゴミが溢れ、コレラや結核などの伝染病が慢性的に流行する「不衛生で過密なスラム」と化していたのです。さらに、新しく登場した「自動車」の交通量に対応できず、馬車と自動車が入り乱れて街は毎日激しい交通渋滞を引き起こしていました。コルビジェは、「歴史的な情緒を守るために、人々が不衛生な暗闇で病に倒れ、都市の機能が麻痺するのを放置することはできない。人々の命と健康、そして都市の生産性を守るためには、外科手術のように古い街を切除し、近代の技術で治療しなければならない」と本気で信じていたのです。
18棟の十字型高層ビルと、広大な緑地・高速道路のユートピア
1925年のパリ現代産業装飾芸術国際博覧会(アールデコ博)のパビリオンで発表されたヴォワザン計画は、パリのセーヌ川右岸のマレ地区など約240ヘクタール(上野公園約4個分)を全面的に解体するものでした。そこに、高さ約200メートル、60階建ての十字型超高層ビル18棟を等間隔に配置します。このビル群の配置により、従来の建ぺい率を劇的に下げ、敷地のわずか5%だけを建物が占め、残りの95%を市民のための広大な「芝生広場、森、スポーツグラウンド」として緑化します。また、歩行者専用の緑道と、高速で走る自動車専用道路を完全に分離する「歩車分離」を世界で初めて本格的に導入しました。太陽と緑と新鮮な空気をすべての人に公平に行き渡らせる、超機能的な近未来の垂直緑化都市のユートピア像でした。
航空機メーカー「ヴォワザン」がスポンサーとなったメディア戦略
この壮大な計画は、当然ながら国家の予算だけで実現できるものではありませんでした。そこでコルビジェは、当時フランスの先端産業であった自動車・航空機製造メーカー「アエロプラン・ヴォワザン(Gabriel Voisin)」社にアプローチし、資金提供(スポンサーシップ)を獲得しました。計画名に企業の名前「ヴォワザン」を冠したのは、現代で言うネーミングライツ(命名権)の先駆的な試みであり、彼の優れたメディア・PR戦略の一部でした。自動車メーカーの支援を受けることで、「自動車社会に最適化された高速都市」というコンセプトを強力にアピールしたのです。この計画は、展示を見た多くの市民や文化人に強烈なアヴァンギャルド的衝撃を与え、都市のあるべき姿についての世界的な大論争を巻き起こすことに成功しました。
計画の挫折と、現代の世界のニュータウンや団地への系譜
当然ながら、パリを愛する大衆や保守的な政治家、文化人たちから「パリの歴史と美を破壊する暴挙だ」と激しい非難を浴び、ヴォワザン計画がパリで実行されることはありませんでした。しかし、コルビジェがこの計画で提唱した「高層ビル、広大な緑地、自動車用の直線道路、歩車分離」という機能主義都市計画の理論は、第二次世界大戦後の世界の復興期において、住宅不足を一気に解消するための世界標準ルール(アテネ憲章)となりました。日本の千里ニュータウンや多摩ニュータウン、団地群、そしてブラジルの首都ブラジリアなどのレイアウトは、すべてこのヴォワザン計画のDNAが直接流れ込んだものです。彼の夢はパリでは葬られましたが、世界中の現代都市の中に形を変えて実現しているのです。