ペサックの集合住宅(シテ・フリュジェス)|量産住宅の夢と挫折

ペサックの集合住宅|シテ・フリュジェスの全景

ペサックの集合住宅とは?量産住宅を夢見たコルビジェの先駆的実験

ペサックの集合住宅(正式名称:シテ・フリュジェス / Quartier Modernes Frugès)は、フランス南西部ボルドーの郊外、ペサック(Pessac)にある近代的な住宅群です。ル・コルビジェ(コルビュジエ)が、従兄弟のピエール・ジャンヌレと共に1924〜1926年にかけて設計・建設しました。

このプロジェクトは、建築史において特別な意味を持っています。それまで富裕層の邸宅(サヴォア邸やラ・ロッシュ邸など)を中心に設計していたコルビジェが、初めて大衆(労働者層)のための「安価で高品質な規格住宅」を大量に供給するという社会的使命に挑んだ、画期的な都市実験でした。

労働者のための健康的な住居という構想は、当時のフランス政府や社会にとって極めて先進的であり、現在のモダンリビングやプレハブ量産住宅の原型がここに結集されていました。しかし同時に、このプロジェクトはコルビジェの建築キャリアにおいて、理想と現実のズレによる手痛い「挫折」を経験した場所でもありました。

施主フリュジェスとの出会いと「標準化住宅」の挑戦

この驚くべき大規模実験を支援したのが、ボルドーの砂糖産業で富を築いた若き産業資本家、ヘンリー・フリュジェス(Henry Frugès)です。フリュジェスは、労働者が粗悪で不衛生な住環境に置かれていることを憂慮し、彼らのための健康的な居住都市を創りたいという高い志を持っていました。

彼はコルビジェの著作『建築をめざして』を読み、感銘を受け、「あなたの理論を大規模なスケールで実験する機会を与えよう」と設計を打診しました。フリュジェスの指示は「既存の建築の伝統を完全に覆し、量産のための規格化を行いなさい」という、コルビジェにとって夢のようなオーダーでした。

コルビジェはこれに応じ、1914年に自ら考案したコンクリートの骨組み構造「ドミノ・システム」を全面的に採用しました。同一のプレキャストコンクリート部品を用いて、現場での工期を劇的に短縮し、製造コストを抑える「標準化(規格化)」による量産住宅の建設がこうして始まりました。

シテ・フリュジェスの建築構造とデザインの特徴

当初は130〜200戸の建設が計画されましたが、最終的には50数戸が完成しました。建物は大きく分けて、「高層(タワー型)」「長屋(テラスハウス型)」「戸建て(ヴィラ型)」などのいくつかの標準的なバリエーション(モジュール)で構成されています。

ピロティと自由な平面: 1階部分をピロティにし、そこを庭や通り抜けスペースとすることで、居住空間を2階以上に持ち上げました。これにより地上の湿気を避け、衛生的な住空間を確保しました。

色彩計画(ポリクロミー): ペサックの最大の特徴の一つは、壁面に施された鮮やかなカラーリングです。コルビジェは、建物を均一なコンクリートの塊に見せないため、空や周囲の自然と調和する「シエナ(茶)」「ブルー(青)」「ジェードグリーン(緑)」「ホワイト(白)」などを各面に巧妙に塗り分けました。これにより、単調になりがちな規格住宅に美しいリズムと立体感をもたらしました。

近代的な設備: 各戸には当時としては非常に珍しい「水洗トイレ」「シャワー・浴室」「セントラルヒーティング(温水暖房)」が完備されており、労働者のための住宅としては画期的な生活水準を誇っていました。

水道不通と近隣住民の反発:直面した厳しい「挫折」

しかし、この前衛的な計画はすぐさま現実の壁にぶつかりました。

ボルドーの地方保守的な行政や市民、地元の建築組合は、この「四角い、屋根のない、カラフルなコンクリートの箱」を異様なものと見なしました。「まるで砂糖の箱だ」「こんなの住居ではない」と猛烈なバッシングが起こったのです。

さらに嫌がらせに近い措置として、地方の水道局がシテ・フリュジェスへの「水道の供給」を拒否するという事態が発生しました。水が出なければ、いかに近代的な設備があっても人が住むことはできません。この水道問題の解決には裁判などを経て数年を要し、完成した美しい住宅群は、数年間にわたり誰も住めない「幽霊都市(ゴーストタウン)」として放置されるという最大の挫折を味わいました。これにより、フリュジェスは巨額の損失を被ることとなりました。

住民による自由な改変:コルビジェ設計の「変貌」

ようやく水道が開通し、労働者や一般市民が実際に入居し始めると、さらに別の形の「挫折」がコルビジェを待ち受けていました。

入居した人々は、コルビジェが設計した「装飾のない白い四角い空間」や「ピロティ」といった近代建築の美学を理解できませんでした。彼らにとって、これらは寒々しく、使いにくいものでした。

その結果、住民たちは自分たちの生活に合わせて家を勝手に改造し始めました。

  • ・冷たい風が吹き込むピロティを壁で囲い、物置や追加の部屋にしてしまう。
  • ・大きな水平連続窓に壁を作り、一般的な小さな「上げ下げ窓」に改造する。
  • ・平らな陸屋根に、雨漏りを防ぎ伝統的な見た目にするための「切妻屋根(斜めの屋根)」を載せてしまう。
  • ・外壁のカラフルなペイントを好まず、すべて茶色や白一色に塗り替えてしまう。
これらは建築家側の「押し付けられたモダニズム」に対する、生活者による生々しい反乱でした。コルビジェはこの改変に一時ひどく落胆しましたが、後に「生活が常に正しい。建築家が間違っていたのだ」と、一種の敗北を認めるような複雑なコメントを残しています。

世界遺産登録と現在:修復されてよみがえる色彩の町

シテ・フリュジェスの受難の歴史は長かったものの、1970年代以降、近代建築史におけるその比類なき価値が世界的に再認識され始めました。

1973年、フランス政府によって国家的な重要文化財に指定され、保護の対象となりました。その後、ペサック市や文化財保護団体による根気強い指導と補助金支援により、住民の手で改築されていた住戸を、コルビジェが設計したオリジナルの姿へと戻す「逆復元」プロジェクトが進められました。

塞がれていたピロティは再び開放され、窓はかつての水平連続窓に戻り、外壁の美しいシエナ、ブルー、グリーンの色彩も精密に復元されました。

現在、ペサックのシテ・フリュジェスは、ユネスコの世界遺産として多くの見学者を世界中から迎えています。住戸の一部は博物館として公開されており、1920年代にコルビジェが労働者のために夢見たモダンライフの内装を体験することができます。

ペサックが現代の量産住宅・プレハブ建築に与えた遺産

ペサックの実験は、当時は成功したとは言い難い結果に終わりました。しかし、ここで培われた技術的思想は、第二次世界大戦後の大量の住宅復興を支える基盤となりました。

工場で部品を作り、現場で組み立てる「プレハブ工法」や、限られた坪数の中で効率的で衛生的な間取りを設計する「システムプランニング」の重要性は、ペサックの試みがなければここまで早く普及しなかったでしょう。

ペサックは、建築家が独善的な芸術性だけで住宅を作るのではなく、人々の生活と社会の要求にいかに寄り添うべきかという、建築の「永遠の課題」を私たちに教えてくれる生きた教材なのです。