運命の朝、1965年8月27日
その日の朝、南フランスのカップ・マルタンは雲ひとつない美しい晴天でした。77歳のル・コルビュジエは、10年以上通い続けたこの地で、いつものように目覚めました。彼の終の棲家となったのは、わずか3.66メートル四方の小さな「休暇小屋(カバノン)」でした。
午前11時頃、彼は医師からの忠告を振り切り、愛する地中海へと向かいました。彼は岩場を降り、紺碧の海に身を投じました。しかし、彼が再び岸に戻ることはありませんでした。遊泳中に心臓発作を起こし、そのまま静かに息を引き取ったのです。海水浴客によって発見された時、20世紀最大の建築家の体は、母なる地中海に漂っていました。それは、彼が愛し、彼の建築のインスピレーションの源であり続けた海との、最後の抱擁でした。
「海」への執着と医師の警告
実は、彼は数年前から心臓を患っており、主治医からは激しい運動、特に冷たい水での海水浴は控えるようにと厳重に注意されていました。しかし、彼は頑としてその忠告を聞き入れませんでした。「私の探求の源泉は海にある」と語っていた彼にとって、海に入り、水平線を眺めることは、単なるレクリエーションではなく、創造のエネルギーをチャージするための神聖な儀式だったのです。
彼は死の予感を抱いていたのかもしれません。死の数日前に書かれた手紙には、人生の総決算を急ぐような焦燥感と、同時に奇妙な静けさが漂っていました。彼が警告を無視して海に入ったのは、病院のベッドの上で朽ち果てることよりも、自然の中で、自分らしく生涯を閉じることを選んだ「確信犯」的な行動だったようにも思えます。
ルーブル宮の中庭での国葬:最高の名誉
彼の訃報は瞬く間に世界中を駆け巡りました。遺体はパリに移送され、9月1日、フランス大統領シャルル・ド・ゴールの命により、ルーブル美術館の中庭(クール・カレ)で国葬が執り行われました。
当時の文化大臣であり、作家でもあったアンドレ・マルローは、感動的な弔辞を捧げました。「建築家のなかでこれほど長く、これほど辛抱強く、人間を侮辱するもの(劣悪な住環境)と闘った人物はいない」。この言葉は、単に美しい建物を作ったことではなく、人々の生活を良くしようと戦い続けた彼の人生の核心を突いていました。会場にはフランス国旗だけでなく、彼が都市計画を実現したインドの国旗も掲げられ、その死を悼みました。
棺に捧げられた二つの「土と水」
葬儀では、極めて象徴的な演出がなされました。彼の棺には、二つの場所の「聖なるもの」が注がれたのです。一つは、若き日の彼が建築家としてのアイデンティティを確立し、「啓示」を受けた場所であるギリシャ・アクロポリスの丘の土。もう一つは、彼が晩年に理想都市を実現させたインドの聖なる川、ガンジス川の水です。
西洋文明の源流であるギリシャと、東洋の精神性が息づくインド。この二つの要素が彼の棺の上で交わった瞬間は、彼が生涯をかけて追求した、東西の融合と普遍的な人類愛を象徴していました。彼はもはや一国の建築家ではなく、世界市民として送られたのです。
カップ・マルタンの墓地:妻と共に
国葬という公的な栄誉を受けた後、彼の遺体は再び静かな南仏に戻されました。彼が眠るのは、カップ・マルタンを見下ろす高台にあるロブ・キュイエ墓地です。そこには、8年前に先立った最愛の妻イヴォンヌが彼を待っていました。
彼が自らデザインしたこの墓は、彼らしい幾何学的な意匠と、色鮮やかなタイルで彩られており、二人の名前が刻まれています。その場所からは、彼が最期を迎えた地中海の水平線が一望できます。栄光と名声に包まれたパリではなく、愛する妻と小さな小屋があったこの場所こそが、巨匠が最後に帰りたかった本当の「家」だったのです。彼は今も、波の音を聞きながら、イヴォンヌと共に永遠の夏の中にいます。