「コルビュジエと従弟ピエール・ジャンヌレ」—35年の協働と決裂、そして和解

「コルビュジエと従弟ピエール・ジャンヌレ」—35年の協働と決裂、そして和解

なぜ「&ピエール・ジャンヌレ」は消えたのか

1940年以前のコルビジェのプロジェクトの多くには、「ル・コルビュジエ & ピエール・ジャンヌレ」という二人の名前がクレジットされていました。しかし、歴史の教科書やオークションカタログではジャンヌレの名前はしばしば省略され、コルビジェ単独の成果として語られがちです。

ピエールはコルビジェの従兄弟であり、1922年からパリで事務所を共同経営した最も重要なパートナーでした。彼らは一心同体のように働き、サヴォア邸やラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸を含む初期の傑作群を生み出しました。二人は「建築の革命」という共通の夢を見る、血よりも濃い絆で結ばれた兄弟だったのです。

「足」としてのジャンヌレ、天才の補佐役

コルビジェが壮大な理論やデザインの方向性を打ち出す「頭脳(ビジョナリー)」だったとすれば、ジャンヌレはそれを具体的な図面に落とし込み、現場を監督し、技術的な問題を解決する「手足(実務家)」でした。

また、気難しく攻撃的なコルビジェとは対照的に、ジャンヌレは温厚で人望があり、所員やクライアントとの緩衝材の役割も果たしていました。名作椅子「LCシリーズ」の快適な座り心地や構造的なディテールにおいても、ジャンヌレの技術的な貢献は計り知れません。彼は天才が空を飛ぶための、滑走路のような存在だったのです。

ヴィシー政権をめぐる対立と決裂

二人の蜜月は、第二次世界大戦によって終わりを告げます。フランスがナチス・ドイツに占領されると、コルビジェは自説を実現するために親独のヴィシー政権に接近し、都市計画の仕事を得ようと画策しました。

一方、ジャンヌレはこれに猛反発し、レジスタンス(抵抗運動)に参加しました。政治的スタンスの決定的な相違により、35年続いたパートナーシップは解消されました。二人はそれぞれの道を歩むことになり、以後10年近く、口をきくことさえなかったと言われています。

チャンディーガルでの再会と、ピエールの家具

戦後、インドのチャンディーガル都市計画という巨大プロジェクトが持ち上がった時、コルビジェは躊躇なくジャンヌレを現地責任者として呼び寄せました。「あの現場を任せられるのは、世界でお前しかいない」。かつての同志は異国の地で再会し、過去の確執を水に流して再び手を組んだのです。

コルビジェがパリに戻った後も、ジャンヌレは15年間インドに残り、現地の職人たちと共にチーク材や籐を使った素朴で美しい家具(チャンディーガル・コレクション)を作り続けました。これらが今、世界中のコレクターが熱狂する「ジャンヌレの家具」です。

コルビジェが最も信頼した男

チャンディーガルでのジャンヌレの献身的な仕事ぶりを見て、晩年のコルビジェは改めて彼への深い信頼と愛情を感じていたと言われます。かつて決裂したものの、最期まで心の奥底で繋がっていたのです。

激しい性格のコルビジェにとって、自分の理想を誰よりも理解し、黙って支え続けてくれたジャンヌレは、かけがえのない半身でした。建築史の表舞台にはあまり出ませんが、ジャンヌレがいなければ、巨匠ル・コルビュジエという神話は完成しなかったに違いありません。