コルビジェとは : 建築界の巨匠の生涯と功績

コルビジェとは

ル・コルビュジエ(Le Corbusier)は、フランスで主に活躍した建築家であり、画家でも、作家でもあります。「近代建築の父」として知られる彼は、スイスに生まれ、若くして建築の道へ進みました。 その後、パリを拠点に芸術家や思想家たちとの交流を重ねながら独自の理論を築き上げ、20世紀の建築・都市計画に大きな革命をもたらしました。

コルビジェの建築業界への影響力は非常に大きく、近代建築のパイオニアと呼ばれ、フランク・ロイド・ライトやミース・ファンデル・ローエとともに、モダニズム建築の3大巨匠の1人とされています。 彼が提唱した「近代建築の五原則」や「ユニテ・ダビタシオン」などの革新的な提案は、後の建築に深い影響を与えました。その功績は、世界各地に残された作品のうち17件が世界遺産に登録されていることからも伺い知ることができます。

コルビジェは単なる建築家という枠にとどまらず、20世紀の芸術と建築の融合を象徴する存在でした。 建築家としての活動と同時に、ピュリスム(純粋主義)の潮流を牽引した画家として制作を続け、そこでの造形への探究を自身の建築思想へと反映させていきました。 また、『建築をめざして』や『ユルバニスム』など多くの著作を通して理念を体系化した作家でもあり、その理論は国際的な議論を通じて世界中へと広まっていきました。

彼の設計思想や芸術観は、従来の建築の常識を根底から覆すものであり、時代を超えて多くの建築家やデザイナー、アーティストにとってのインスピレーションの源となってきました。 コルビジェの作品や理論は、建物という「箱」をただの住まいではなく、人の暮らしや時間、空間を豊かにする「生きた構造」として捉える視点を社会に提示したのです。

こうした理由から、今日においても「コルビュジエ」の名は、機能性と美学を兼ね備えたモダン建築の代名詞として語られ続けています。 その思想は今もなお、現代の建築・デザインの基盤として生き続けています。

このページでは、コルビジェの生涯と功績をわかりやすく辿り、そこから見える彼の人物像に迫ります。

コルビジェの顔画像ポートレイト

コルビジェの何がすごい?

コルビジェの建築界へ貢献として最も大きかったのは、「鉄筋コンクリート」の強みを深く理解し、それを活かすことで、建築業界に革命を起こしたことでした。

コルビジェは、それを自身で実践するだけでなく、「ドミノシステム」や「新しい建築の5原則」などに、理論化し、言語化することに成功し、それを世界に広めました。

現代の世界に溢れている、美しいデザインのビルや高層マンションの原点にはコルビュジエの存在があるのです。

さらに、コルビュジエが鉄筋コンクリートの可能性を追求したことは、単に構造の強度を高めるだけでなく、建築における「空間の自由」をもたらしました。

従来の石造りや木造建築では不可能だった、大きな開口部や広々とした居住空間、垂直空間の実現が可能となり、それまでの建築デザインの枠を押し広げました。

特に彼が提唱した「ドミノシステム」は、スラブと柱、階段のみで構造を支えることで、壁に縛られない自由な間取りと空間構成を可能にするという、まさに画期的なアイデアでした。

また、「新しい建築の5原則」は、ピロティや水平連続窓、屋上庭園など、機能性と美しさを両立させた設計理念として、現代の建築・都市設計にも色濃く受け継がれています。

今日、多くのモダン建築や集合住宅、オフィスビルで見られるデザインの原型の多くは、コルビジェによってその骨子が示され、そして実証されたものと言えるでしょう。

コルビジェの本名は?

ル・コルビュジエとして、世界に知られている彼ですが、本名は、シャーリ・エドゥア・ジャヌへ(Charles-Edouard Jeanneret)といいます。

ル・コルビュジエという名は、彼が33歳の時に総合アート雑誌「レスプリー・ヌーヴォ」の執筆で、建築や絵画について執筆する際に使った、作家としてのペンネームでした。

ル・コルビュジエとして書いた彼の理論や考えは、後にまとめられ、「建築をめざして」「近代建築名鑑」などとして出版されました。

こうした出版の力の影響もあり、ル・コルビュジエの考える近代建築の考え方が世界中に広がったのです。

だからこそ、本名のシャーリ・エドゥア・ジャヌへではなく、ル・コルビジェとして、彼は世界の人々に記憶されたのです。

彼がペンネームを使い始めた背景には、当時の芸術界で自身の思想をより強く打ち出したいという意図があったともいわれています。

特に、若い建築家として自らの理論を確立しようとしていたコルビジェにとって、新しい名前を名乗ることは「思想家として生まれ変わる」という象徴的な意味を持っていました。

さらに、出版物を通じて広がる彼の思考は、近代建築の枠組みを形づくり、後の世代にも影響を与え続けています。

こうした点からも、コルビュジエという名が建築史に刻まれたのは自然な流れであり、彼の革新的な活動が世界的に認知される基盤となったと言えるでしょう。

ル・コルビュジエの正しい日本語表記は?

Le Corbusierというフランス語の名前を日本語(カタカナ表記)にしたものがル・コルビュジエではありますが、フランス語はカタカナにしにくい発音もあり、Le Corbusierにもカタカナにしにくい発音が含まれています。

そのため、Le Corbusierを日本語表記する際も、コルビュジエやコルビジェ、コルビジェ、コルブジェなど様々な表記が散見されます。

日本で一番一般的になっているのが「ル・コルビュジエ」ですので、「ル コルビュジエ ショップ」では、この表記を使用しておりますが、フランス語の発音を実際に聞いてみると、「ル・コビジェ」と言っていて2つ目の「ル」は発音しませんので、「ル・コルビュジエ」とカタカナフランス語でフランス人に話しても通じないかもしれません。

このように、表記の揺れが多い理由には、フランス語独特の発音に加えて、日本語のカタカナ表記では完全に再現しにくい微妙な音のニュアンスが影響しています。

また、建築やデザインの分野で語られる際には、その文化背景や言語的な感覚によっても呼び名が変わることがあります。 そのため、研究者や愛好家の間でも「コルビジェ」と表記するケースが増えており、検索キーワードとしても「コルビジェ」と「コルビュジエ」の両方が使われています。

コルビジェは生粋のフランス人?

コルビュジエは、生粋のフランス人かと思われていますが、フランス国籍を取得したのは実は43歳の時でした。それまではスイス生まれのスイス人でした。

ル・コルビュジエは1887年10月6日、スイス北西部のヌーシャテル州にあるフランス語圏の町で、スイス時計製造業の代表的都市として知られる、ラ・ショー・ド・フォンで生まれました。

スイスの文化とフランス語圏の環境で育ったことが、後のコルビジェの美意識や建築思想に大きな影響を与えました。

とくにラ・ショー・ド・フォンの街は時計産業で世界的に知られ、その精密なものづくり文化は幼少期から彼の感性を刺激していたと考えられています。

フランス国籍を取得した後はパリを拠点に活動しましたが、彼の中には常にスイスの精神と職人気質が息づいており、それが「合理性」と「機能美」を追求する建築理念として表れています。

こうした背景を知ることで、コルビジェがなぜ世界的な革新を起こし得たのかがより理解しやすくなります。

コルビジェはどんな家庭で生まれたか?

コルビュジエの父親は時計職人で、母親はピアノ教師、という職人と芸術家の血筋を受けた子(次男)として生まれたのです。

幼少期のコルビジェは、遊びを中心とする幼児教育「フレーベル教育」を行う幼稚園に通いました。

職人である父と音楽家である母という、異なる才能を併せ持つ家庭環境は、幼い頃の彼に幅広い感性を養わせました。

特に母の音楽教育は、リズムや調和といった抽象的な要素を幼少期から意識するきっかけとなり、後の建築作品にも通じる「バランス感覚」として表れています。

また、フレーベル教育を受けた経験は、創造力を伸ばし、形や空間を自ら考える習慣につながったといわれています。

これらの要素が複合的に作用し、後のコルビジェの建築理念の基盤を強固にしていったのです。

コルビジェと建築の出会いは?

10代の頃のコルビュジエは、家業を継ぐために、地元の美術学校で彫刻と彫金を学んでいましたが、視力の低下により、精密な時計を作るのが難しくなっていったことと、美術学校の校長先生から勧められたことで、建築家の道を歩み始めました。

美術学校での彫刻・彫金の学びは、素材の特性や形態の美しさを追求する姿勢につながり、彼の建築デザインに繊細な造形感覚を与えました。

また、校長から建築の道を勧められた背景には、コルビジェの持つ鋭い観察力や構造への興味がすでに芽生えていたことが挙げられます。

この時期の経験が、後に世界的な理論として結実する創造力の源泉となり、コルビジェは芸術と工学の融合を目指す建築家へと成長していきました。

コルビュジエの建築設計デビューはいつか?

1905年、コルビジェは美術学校の校長先生の誘いで、美術学校の在学中の18歳の時に早くも「ファレ邸」のプロジェクトに参画し設計を担当し、建築家デビューをしました。

ファレ邸のプロジェクトは若きコルビジェにとって大きな挑戦であり、実践を通じて建築の基礎知識を深める貴重な機会となりました。

この経験は、単なる学生の設計活動ではなく、実際の建築現場と密接に関わることで得られる洞察が多く、後の作品や理論に影響を残しました。

若くして実務を経験し、建築家としての自信を培ったことが、彼の早熟な才能を引き出す結果となったのです。

修行時代のコルビュジエ

1907年、20歳のル・コルビュジエはパリに移住し、鉄筋コンクリート建築の先駆者で、フランスで活躍したベルギー人の建築家「オーギュスト・ペレ」に師事しました。

コルビジェは、1910年の23歳の時に、ドイツのベルリンに移住し、建築家「ペーター・ベレンス」の事務所で働き、建築家としての経験を積んでいきます。

パリでのオーギュスト・ペレのもとでの学びは、革新的な鉄筋コンクリート技術との出会いであり、これが後の近代建築理論を形成する重要な要素となりました。

また、ベルリンでペーター・ベーレンスの事務所に入った経験は、異なる文化圏の建築思想を吸収する絶好の機会であり、産業化とデザインの融合に関する理解を深める契機となりました。

多様な建築家のもとで経験を積んだことが、彼の建築観に幅広い視野と独自性をもたらしたのです。

世界の有名建築物を見てコルビジェが受けたインスピレーション

そして23歳のコルビジェは、ベルリンから、東ヨーロッパ、東南ヨーロッパ、南ヨーロッパ、西アジアを巡る旅に出ました。

そこで世界の有名な建築物を実際に目にし、多くのインスピレーションを受けたとされています。

若き日のコルビジェは、ベルリンを拠点にしていた折、東ヨーロッパから西ヨーロッパ、さらには西アジアに至る広範囲の地域を旅し、多様な建築様式や都市の構造を自らの目で見て回りました。

古代ローマの遺構やビザンツ建築の教会、オスマン帝国期の宮殿、東欧や南欧の伝統的な集合住宅── そうした歴史と土地ごとに異なる建築の「生きた事例」を目の当たりにすることで、コルビジェはただ理論にとらわれない、実践と経験に裏打ちされた建築観を養うことができたのです。

これらの旅から得た直感と理解は、後の「合理性」や「機能性」を重視する設計思想の原点となり、彼が生きた時代のヨーロッパ的伝統と、新しいモダニズムを融合させる架け橋になりました。

世界の多様な建築と都市の在り方を肌で感じた経験こそが、コルビジェを世界的な思想家として育てた重要な財産だったと言えるでしょう。

故郷に戻ってコルビジェが選んだ建築家以外の仕事とは?

その後、コルビュジエは、生まれ故郷のスイスのラ・ショー・ド・フォンの美術大学で、教師として働き、1912年の25歳の時には、コルビジェの両親のための家を設計し、建築家として独立しました。

スイスの故郷ラ・ショー・ド・フォンに戻ったコルビジェは、自らのルーツと家族への思いを建築に込めるべく、両親のための家の設計に着手しました。

この設計は単なる家づくりではなく、彼の感性や幼い頃から育まれてきた職人精神、そして芸術的な感覚すべてを注ぎ込んだものとなりました。

また同時に、美術大学での教鞭という形で若い世代と接することで、建築の基礎だけでなく、造形感覚や空間構成の大切さを伝える役割も担いました。

こうした建築以外の経験が、後に建築思想を文字にし、広める際の思想的な土壌を育てることになったのです。

つまり、設計と教育という二つの道を歩むことで、コルビジェは単なる建てる人ではなく、思索し、伝える建築家、作家建築家へと変貌を遂げたのです。

コルビュジエが、革命の狼煙をあげる

そして1914年、コルビュジエが27歳の時、鉄筋コンクリートによる住宅の建築方法である「ドミノシステム」を発表しました。

「ドミノシステム」とは、鉄筋コンクリートの強みを最大限に活かし、「スラブと柱、そして階段さえ鉄筋コンクリートで頑丈に作っておけば、建築物の他の要素は自由に設計できる」という建築哲学を理論化、言語化したものでした。

「ドミノシステム」を通し、コルビュジエは機能性を信条とした近代建築を、世界に提唱したのです。

1914年に彼が提唱した「ドミノシステム」という構造思想は、当時の建築界にとってまさに革命的な提案でした。

柱とスラブ、階段だけで建物を支えるという発想は、従来の壁式建築や過剰な装飾主義とは一線を画すもので、「建築を機械のように合理的に設計する」という新しい価値観を提示しました。

さらにこのアイディアは、戦後の大量住宅建設や都市再建の時代において、画期的な設計手法として世界中で応用されることになりました。

コルビジェはただ理論を論じただけでなく、この思想を実際の建築に落とし込もうとする強い意志を持っており、その姿勢が「近代建築」という新たなムーブメントの狼煙となったのです。

コルビジェが建築家としての経験を積み、フランス・パリでの勉強を通して得たもの

その後も、コルビュジエは、生まれ故郷のスイスのラ・ショー・ド・フォンで、建築家としての実績を増やしていきますが、同時にフランスのパリの国立図書館の版画部門で勉強し、学術的な活動にも邁進していきます。

1917年、30歳を迎えた年に、コルビュジエはフランスのパリに定住することに決めました。

パリでは、建築事務所を構え、鉄筋コンクリート会社の顧問も務めるコルビジェでしたが、多くの芸術家達と出会った影響もあり、コルビジェも画廊での展示会などに自身の作品を出展するなど、画家としての活動にも本格的に力を入れ始めます。

パリへの移住後、コルビジェは建築事務所を構えただけではなく、鉄筋コンクリートの技術やそれに伴う施工ノウハウ、さらに都市というスケールを見据えた設計思想を深く学んでいきました。

都市における建築の役割、街の中で人々がどう暮らすか、光や風、動線、社会のインフラとしての建築── こうした広い視野を持つことで、彼の設計は単なる「住宅」や「建物」を超えて、「生活を支える器」や「社会を形づくる構造」へと昇華していきました。

また、多くの芸術家や思想家との交流を通して、建築が持つ表現性や象徴性、そして芸術としての可能性にも気づき、建築を単なる工学ではなく、芸術・思想の融合体と捉えるようになったのです。

左目の視力を失ったコルビジェ

パリで多くの芸術家達と出会い、多くのインスピレーションを受け、建築家としてだけでなく、画家としても精力的に活動するコルビジェでしたが、1918年、彼が31歳の時に、網膜はく離で左目の視力を失ってしまいます。

1918年に左目の視力を失ったという困難は、コルビジェにとって大きな試練でした。しかし、それはただの障害ではなく、彼にとって新たな創造の転換点ともなりました。

視覚の一部を失ったことで、「見る」ことの意味、光や影、空間の奥行き、建築の構造がもたらす体験── そうしたことを、ただ視覚的にだけでなく、身体的、思想的にも深く考えるきっかけとなったのです。

むしろこの経験は、彼の設計において「機能」と「感性」「人間」と「構造」のバランスを、より一層大切にする姿勢を強める結果となりました。

苦難を乗り越えたからこそ、コルビジェは建築をただの形ではなく、「人が生きるための空間」と捉える深みを獲得したのです。

コルビジェの「ル・コルビュジエ」デビュー

1920年、コルビジェが33歳の時、総合アート雑誌「レスプリー・ヌーヴォ」を発行します。

その時の執筆で、建築や絵画について執筆する際に作家として使ったペンネームが「Le Corbusier」でした。

この「レスプリー・ヌーヴォ」の発行を通し、「ル・コルビュジエ」として彼の名が世界に広がっていきます。

1920年、彼が総合芸術雑誌への寄稿をきっかけに採用した「Le Corbusier」というペンネームは、単なる芸名ではありませんでした。

それは、自らの建築観、芸術観、そして新しい時代のための思想を表明するための「宣言」としての名前だったのです。

このデビューにより、コルビジェという名前が単なる個人の署名ではなく、近代建築の象徴となり、世界中の建築家や芸術家に対するメッセージとなりました。

彼の思想や設計は、この名前を通して広く伝わり、後の建築や都市のあり方に継続的な影響を与えていく基盤となったのです。

コルビジェ、結婚相手との出会い

1922年、35歳の時に、コルビュジエは後に結婚することになるモデルのイバンヌ・ガリと出会います。

この年には、今もパリで毎年、秋に開催されている美術展覧会、「サロン・ドートンヌ」で「300万人の現代都市計画」を発表しました。

またコルビジェの建築実績の代表作である「ベスニュ邸」や「オザンファンのアトリエ住宅」、「シトロアン住宅案」、「イムーブル・ヴィラ案」などに取り組んだのもこの年でした。

1922年に出会ったモデルのイバンヌ・ガリとの関係は、コルビジェの人生と芸術に大きな影響を与えました。

彼女との出会いは、建築や都市計画、理論だけでなく、人間の暮らしや生活の中にある「美」や「日常性」に対する関心を改めて思い起こさせたといわれています。

そして同年、彼が発表した「300万人の現代都市計画」は、単なる建築案ではなく、人々の暮らしと都市の未来を見据えた大胆なヴィジョンでした。

こうして、個人的な出会いや人間関係もまた、コルビジェの思想や作品に新たな深みを与える重要な要素となったのです。

建築家、画家、作家としての経験値を着実に増やしていくコルビジェ

1923年、36歳の時には、コルビジェは「住宅は住むための機械である」という言葉で有名な著作「建築をめざして」を出版し作家としての存在感を高めます。

同年に、レオンス・ロザンベールの画廊で「ジャンヌレ&オザンファン」の展覧会も開催し、画家としても活躍します。

さらにコルビュジエは、「ラ・ロッシュ+ジャンヌレ邸」、両親のための「レマン湖の小さな家」の建設にも着手し建築家としての経験値も積んでいきます。

1924年、37歳の時には、コルビジェは、都市のありかたについて書かれた本「ユルバニスム」を出版します。

そして「労働者の住宅」や、「リプシッツ&ミスチャニノフ邸」の建設を手がけました。

1925年、38歳の時には、コルビュジエは、「近代建築名鑑」や「今日の装飾芸術」、「近代絵画(共著)」を出版し、作家としての影響力をさらに高めます。

同年、コルビジェは「エスプリ・ヌーヴォー館」や「シテ・フリュジェ」の建設、「ヴォワザン計画」や「メイヤー邸」の計画にも着手し、建築家としての経験値をさらに積んでいきます。

1923年以降、彼は「建築をめざして」をはじめとする著作活動、そして画家としての制作活動を本格化させました。

この時期、コルビジェは設計という行為を越え、「空間」や「時間」、「人間の暮らし」に関する哲学を言語化し、世界に提示しました。

彼の住宅設計や都市計画案のみならず、文章や絵画を通じて伝えられた思想は、建築の枠を超えて、社会や文化、芸術の領域にまで波及しました。

まさにコルビジェは建築家、画家、作家という三つの顔を持つ「総合芸術家」として、自身の世界観を広く発信し、その影響力を強めていったのです。

コルビジェの5大原則とは?

「新しい建築のための5つの要点」で、コルビジェは「近代建築の五原則」を定義しました。

具体的には、以下の5つです。

■「ピロティ」(1階部分を柱だけ支えることで、1階部分の壁をなくし、開放的な空間を生み出すこと)

■「屋上庭園」(屋上を庭園として利用することで、緑を増やし、農作物を作ったり、空気浄化の効果やストレス低減の効果を高めること)

■「自由な平面」(壁で建物を支えるのではなく、柱と梁(はり)で建物を支えることで、建物の内部の間取りの自由度を高めること)

■「水平連続窓」(建物の外壁一面に窓を連続させ、窓の面積を増やすことで、建物内部に光を多く取り入れ、開放的な空間を作り出すこと、また建物のデザインをより美しくすること)

■「自由な立面」(構造壁を必要としない立面は、窓を大きくできたり、デザインの自由度が高くなり、建物の外観をより自由に、より美しく表現できるようになること)

これらの原則は、鉄筋コンクリートの技術を駆使することで、建築・設計の世界にアート(芸術)の要素を取り込むことを可能にした、革命的なアイデアでした。

彼が提唱した5大原則――ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面――は、単なるデザインのテクニックではなく、生活そのもの、都市のあり方、そして時間や人間の生き方を見直すための「思想」のようなものでした。

ピロティによって地面を解放し、屋上を緑で覆うことで自然と都市を調和させ、自由な間取りや大きな窓によって光と風を取り込み、人々がより快適で創造的に暮らせる空間をつくろうとする―― そうした設計思想は、まさに建築を「住む者のための機械(マシーン)」とするコルビジェの信念そのものでした。

この5原則は、彼の理論が生きた具体的な設計指針であり、後世の建築家たちにとっても普遍的な道標となったのです。

コルビュジエが「現代建築国際会議(CIAM)」を設立

1928年、41歳の時、スイスのラ・サラ城で、コルビュジエは建築家23名と共に、ラ・サラ宣言を発表しました。

その中で、都市計画や住宅のあり方をテーマにした定期的会合「現代建築国際会議(CIAM)」を設立することを発表しました。

この「現代建築国際会議(CIAM)」を通して、コルビジェは都市計画のあり方や、未来の住宅のあり方などを提案していきます。

1928年、コルビジェが同僚の建築家たちとともに設立した「現代建築国際会議 (CIAM)」は、単なる団体ではなく、近代建築と都市計画の思想を体系化し、世界に発信するためのプラットフォームでした。

CIAM を通じて、彼は建築家だけでなく、都市計画者、社会学者、政策関係者などとも議論を交わし、「新しい都市のあり方」「未来の住宅」「住まう人々の生活」のビジョンを共有・発展させていきました。

このように、コルビジェの思想は個人の設計を超えて、社会や文化全体に影響を与えるムーブメントとなり、結果として20世紀の都市と建築の在り方を根本から変えるきっかけとなったのです。

コルビュジエの最高傑作、サヴォア邸の建設

1929年、42歳の時、コルビュジエはパリ郊外に、サヴォア邸を建設しました。

このサヴォア邸は、コルビジェの提唱した「近代建築の五原則」の理念が全て体現された最高傑作として有名になりました。

サヴォア邸は、ただ五原則を形にしただけではなく、空間の使い方、人と自然との関係、そして住まいの持つ意味そのものを問い直した建築作品でした。

ピロティによって建物を地面から浮かせることで、庭や地面をまるで「余白」のように使えるようにし、屋上庭園を設けることで都市の中に緑と開放感を取り込んでいます。

また、自由な平面と水平連続窓、大きな立面デザインにより、室内は光と風がゆきわたり、住む人にとって快適で美しい生活空間となりました。

建物を「ただ住む箱」にせず、「日常と自然が交わる場」とするこの設計は、当時としては革命的であり、モダン建築の概念を一歩先へ押し進めました。

このようにサヴォア邸は、外観の軽やかさと内部の機能性・居住性を高次で両立させ、コルビジェの理論を実践で示した象徴となり、後の建築家や都市計画者たちに大きな影響を与えることになったのです。

コルビジェの集合住宅作品で最も有名なユニテ・ダビタシオン

1947年、60歳の時に、コルビジェはコルビュジエの集合住宅作品として最も有名なユニテ・ダビタシオンの建築を開始しました。

ユニテ・ダビタシオンは8階建337戸の大型の集合住宅ですが、ピロティによって集合住宅が地面から浮き上がったような構造になっています。

ユニテ・ダビタシオンは、単なるマンションではなく、都市生活や共同体としての暮らしを再定義する試みでした。

地面から浮かせるピロティ構造により、下層部には通路や商業施設、共有スペースなどを設け、住居以外の用途と住居を一体化させることで、都市の中で人々が自然に交流し、助け合い、共同体として機能するような生活環境を目指しました。

また、階数や住戸数から想像されるような無機質さや画一性ではなく、個々の住戸は採光・通風・視界などを考慮した設計がなされ、住む人一人ひとりの暮らしの質を尊重する姿勢が感じられます。

コルビジェにとってこの集合住宅は、「ただ住まう場」ではなく、「人々がともに暮らし、関係を築くための都市の単位」として設計されたものであり、その思想は現代の集合住宅や都市型住宅の設計にも大きな影響を与え続けています。

コルビジェが日本に残した世界遺産は?

1959年、72歳の時に、コルビジェは東京上野の国立西洋美術館の建築を手掛けました。

国立西洋美術館にもコルビュジエが提唱した「近代建築の五原則」の多くが実装されました。

この日本での代表作である国立西洋美術館は、コルビジェの思想が母国フランスを越えて、異なる文化圏や気候、都市構造の中でも通用する普遍性を持っていたことを示す貴重な実例です。

日本の都市環境や気候を考慮しながらも、彼の設計理念である「機能性と美」の融合、光と影、空間の流動性を取り入れ、日本における近代建築の受容と発展に大きく寄与しました。

さらに、この作品が後に世界遺産登録建築群の一員となったことは、コルビジェの思想と作品が時代や国境を越えて評価されるものであったことを象徴しています。

つまり、彼の建築は単なる個別の建物にとどまらず、国際的・歴史的な価値を持つものとして、世界中の人々に共有される建築の遺産となったのです。

コルビュジエの最期

1965年、77歳の時に、コルビジェは南フランスに自身で設けた「カップ・マルタンの休暇小屋」に滞在中、近くの海で海水浴中に心臓発作で亡くなりました。

コルビュジエは生涯を通し、建築業界に革命を起こし続け、彼の建築作品の17作品がユネスコの世界文化遺産に登録されています。

晩年まで精力的に活動を続けたコルビジェにとって、海での事故による急逝は多くの人々にとって衝撃でした。

しかし彼の死は、彼の思想や建築が終わることを意味するものではなく、むしろその後の世代へ継承される出発点となりました。

コルビジェが築き上げた設計思想、都市や住宅に対するビジョン、人と空間、人と社会との関係性の捉え方は、彼の死後も建築家、画家、都市計画者、デザイナーなど多くの人々に受け継がれ、新しい建築や都市の潮流を生み出し続けています。

彼の17作品が世界文化遺産として登録されたという事実は、コルビュジエの名が単なる歴史の一ページにとどまらず、現在も生き続け、世界中の人々に建築の可能性を示し続けている証でもあります。

彼が遺した「建築とは何か」「人はどう生き、どう住むべきか」という根源的な問いは、これからも未来の世代に問いかけられ続けるでしょう。