コルビジェの実績と経歴

コルビジェとは

ル・コルビュジエ(Le Corbusier)は、フランスで主に活躍した建築家であり、画家でも、作家でもあります。

コルビジェの建築業界への影響力は非常に大きく、近代建築のパイオニアと呼ばれ、フランク・ロイド・ライトやミース・ファンデル・ローエとともに、モダニズム建築の3大巨匠の1人とされています。

コルビジェの何がすごい?

コルビジェの建築界へ貢献として最も大きかったのは、「鉄筋コンクリート」の強みを深く理解し、それを活かすことで、建築業界に革命を起こしたことでした。

コルビジェは、それを自身で実践するだけでなく、「ドミノシステム」や「新しい建築の5原則」などに、理論化し、言語化することに成功し、それを世界に広めました。

現代の世界に溢れている、美しいデザインのビルや高層マンションの原点にはコルビュジエの存在があるのです。

コルビジェの本名は?

ル・コルビュジエとして、世界に知られている彼ですが、本名は、シャーリ・エドゥア・ジャヌへ(Charles-Edouard Jeanneret)といいます。

ル・コルビュジエという名は、彼が33歳の時に総合アート雑誌「レスプリー・ヌーヴォ」の執筆で、建築や絵画について執筆する際に使った、作家としてのペンネームでした。

ル・コルビュジエとして書いた彼の理論や考えは、後にまとめられ、「建築をめざして」「近代建築名鑑」などとして出版されました。

こうした出版の力の影響もあり、ル・コルビュジエの考える近代建築の考え方が世界中に広がったのです。

だからこそ、本名のシャーリ・エドゥア・ジャヌへではなく、ル・コルビジェとして、彼は世界の人々に記憶されたのです。

ル・コルビュジエの正しい日本語表記は?

Le Corbusierというフランス語の名前を日本語(カタカナ表記)にしたものがル・コルビュジエではありますが、フランス語はカタカナにしにくい発音もあり、Le Corbusierにもカタカナにしにくい発音が含まれています。

そのため、Le Corbusierを日本語表記する際も、コルビュジエやコルビジェ、コルビジェ、コルブジェなど様々な表記が散見されます。

日本で一番一般的になっているのが「ル・コルビュジエ」ですので、「ル コルビュジエ ショップ」では、この表記を使用しておりますが、フランス語の発音を実際に聞いてみると、「ル・コルビジェ」と言っていて「ル」は発音しませんので、「ル・コルビュジエ」とカタカナフランス語でフランス人に言っても通じないかもしれません。

コルビジェは生粋のフランス人?

コルビュジエは、生粋のフランス人かと思われていますが、フランス国籍を取得したのは実は43歳の時でした。それまではスイス生まれのスイス人でした。

ル・コルビュジエは1887年10月6日、スイス北西部のヌーシャテル州にあるフランス語圏の町で、スイス時計製造業の代表的都市として知られる、ラ・ショー・ド・フォンで生まれました。

コルビジェはどんな家庭で生まれたか?

コルビュジエの父親は時計職人で、母親はピアノ教師、という職人と芸術家の血筋を受けた子(次男)として生まれたのです。

幼少期のコルビジェは、遊びを中心とする幼児教育「フレーベル教育」を行う幼稚園に通いました。

コルビジェと建築の出会いは?

10代の頃のコルビュジエは、家業を継ぐために、地元の美術学校で彫刻と彫金を学んでいましたが、視力の低下により、精密な時計を作るのが難しくなっていったことと、美術学校の校長先生から勧められたことで、建築家の道を歩み始めました。

コルビュジエの建築設計デビューはいつか?

1905年、コルビジェは美術学校の校長先生の誘いで、美術学校の在学中の18歳の時に早くも「ファレ邸」のプロジェクトに参画し設計を担当し、建築家デビューをしました。

修行時代のコルビュジエ

1907年、20歳のル・コルビュジエはパリに移住し、鉄筋コンクリート建築の先駆者で、フランスで活躍したベルギー人の建築家「オーギュスト・ペレ」に師事しました。

コルビジェは、1910年の23歳の時に、ドイツのベルリンに移住し、建築家「ペーター・ベレンス」の事務所で働き、建築家としての経験を積んでいきます。

世界の有名建築物を見てコルビジェが受けたインスピレーション

そして23歳のコルビジェは、ベルリンから、東ヨーロッパ、東南ヨーロッパ、南ヨーロッパ、西アジアを巡る旅に出ました。

そこで世界の有名な建築物を実際に目にし、多くのインスピレーションを受けたとされています。

故郷に戻ってコルビジェが選んだ建築家以外の仕事とは?

その後、コルビュジエは、生まれ故郷のスイスのラ・ショー・ド・フォンの美術大学で、教師として働き、1912年の25歳の時には、コルビジェの両親のための家を設計し、建築家として独立しました。

コルビュジエが、革命の狼煙をあげる

そして1914年、コルビュジエが27歳の時、鉄筋コンクリートによる住宅の建築方法である「ドミノシステム」を発表しました。

「ドミノシステム」とは、鉄筋コンクリートの強みを最大限に活かし、「スラブと柱、そして階段さえ鉄筋コンクリートで頑丈に作っておけば、建築物の他の要素は自由に設計できる」という建築哲学を理論化、言語化したものでした。

「ドミノシステム」を通し、コルビュジエは機能性を信条とした近代建築を、世界に提唱したのです。

コルビジェが建築家としての経験を積み、フランス・パリでの勉強を通して得たもの

その後も、コルビュジエは、生まれ故郷のスイスのラ・ショー・ド・フォンで、建築家としての実績を増やしていきますが、同時にフランスのパリの国立図書館の版画部門で勉強し、学術的な活動にも邁進していきます。

1917年、30歳を迎えた年に、コルビュジエはフランスのパリに定住することに決めました。

パリでは、建築事務所を構え、鉄筋コンクリート会社の顧問も務めるコルビジェでしたが、多くの芸術家達と出会った影響もあり、コルビジェも画廊での展示会などに自身の作品を出展するなど、画家としての活動にも本格的に力を入れ始めます。

左目の視力を失ったコルビジェ

パリで多くの芸術家達と出会い、多くのインスピレーションを受け、建築家としてだけでなく、画家としても精力的に活動するコルビジェでしたが、1918年、彼が31歳の時に、網膜はく離で左目の視力を失ってしまいます。

コルビジェの「ル・コルビュジエ」デビュー

1920年、コルビジェが33歳の時、総合アート雑誌「レスプリー・ヌーヴォ」を発行します。

その時の執筆で、建築や絵画について執筆する際に作家として使ったペンネームが「Le Corbusier」でした。

この「レスプリー・ヌーヴォ」の発行を通し、「ル・コルビュジエ」として彼の名が世界に広がっていきます。

コルビジェ、結婚相手との出会い

1922年、35歳の時に、コルビュジエは後に結婚することになるモデルのイバンヌ・ガリと出会います。

この年には、今もパリで毎年、秋に開催されている美術展覧会、「サロン・ドートンヌ」で「300万人の現代都市計画」を発表しました。

またコルビジェの建築実績の代表作である「ベスニュ邸」や「オザンファンのアトリエ住宅」、「シトロアン住宅案」、「イムーブル・ヴィラ案」などに取り組んだのもこの年でした。

建築家、画家、作家としての経験値を着実に増やしていくコルビジェ

1923年、36歳の時には、コルビジェは「住宅は住むための機械である」という言葉で有名な著作「建築をめざして」を出版し作家としての存在感を高めます。

同年に、レオンス・ロザンベールの画廊で「ジャンヌレ&オザンファン」の展覧会も開催し、画家としても活躍します。

さらにコルビュジエは、「ラ・ロッシュ+ジャンヌレ邸」、両親のための「レマン湖の小さな家」の建設にも着手し建築家としての経験値も積んでいきます。

1924年、37歳の時には、コルビジェは、都市のありかたについて書かれた本「ユルバニスム」を出版します。

そして「労働者の住宅」や、「リプシッツ&ミスチャニノフ邸」の建設を手がけました。

1925年、38歳の時には、コルビュジエは、「近代建築名鑑」や「今日の装飾芸術」、「近代絵画(共著)」を出版し、作家としての影響力をさらに高めます。

同年、コルビジェは「エスプリ・ヌーヴォー館」や「シテ・フリュジェ」の建設、「ヴォワザン計画」や「メイヤー邸」の計画にも着手し、建築家としての経験値をさらに積んでいきます。

コルビジェの5大原則とは?

「新しい建築のための5つの要点」で、コルビジェは「近代建築の五原則」を定義しました。

具体的には、以下の5つです。

■「ピロティ」(1階部分を柱だけ支えることで、1階部分の壁をなくし、開放的な空間を生み出すこと)

■「屋上庭園」(屋上を庭園として利用することで、緑を増やし、農作物を作ったり、空気浄化の効果やストレス低減の効果を高めること)

■「自由な平面」(壁で建物を支えるのではなく、柱と梁(はり)で建物を支えることで、建物の内部の間取りの自由度を高めること)

■「水平連続窓」(建物の外壁一面に窓を連続させ、窓の面積を増やすことで、建物内部に光を多く取り入れ、開放的な空間を作り出すこと、また建物のデザインをより美しくすること)

■「自由な立面」(構造壁を必要としない立面は、窓を大きくできたり、デザインの自由度が高くなり、建物の外観をより自由に、より美しく表現できるようになること)

これらの原則は、鉄筋コンクリートの技術を駆使することで、建築・設計の世界にアート(芸術)の要素を取り込むことを可能にした、革命的なアイデアでした。

コルビュジエが「現代建築国際会議(CIAM)」を設立

1928年、41歳の時、スイスのラ・サラ城で、コルビュジエは建築家23名と共に、ラ・サラ宣言を発表しました。

その中で、都市計画や住宅のあり方をテーマにした定期的会合「現代建築国際会議(CIAM)」を設立することを発表しました。

この「現代建築国際会議(CIAM)」を通して、コルビジェは都市計画のあり方や、未来の住宅のあり方などを提案していきます。

コルビュジエの最高傑作、サヴォア邸の建設

1929年、42歳の時、コルビュジエはパリ郊外に、サヴォア邸を建設しました。

このサヴォア邸は、コルビジェの提唱した「近代建築の五原則」の理念が全て体現された最高傑作として有名になりました。

コルビジェの集合住宅作品で最も有名なユニテ・ダビタシオン

1947年、60歳の時に、コルビジェはコルビュジエの集合住宅作品として最も有名なユニテ・ダビタシオンの建築を開始しました。

ユニテ・ダビタシオンは8階建337戸の大型の集合住宅ですが、ピロティによって集合住宅が地面から浮き上がったような構造になっています。

コルビジェが日本に残した世界遺産は?

1959年、72歳の時に、コルビジェは東京上野の国立西洋美術館の建築を手掛けました。

国立西洋美術館にもコルビュジエが提唱した「近代建築の五原則」の多くが実装されました。

コルビュジエの最期

1965年、77歳の時に、コルビジェは南フランスに自身で設けた「カップ・マルタンの休暇小屋」に滞在中、近くの海で海水浴中に心臓発作で亡くなりました。

コルビュジエは生涯を通し、建築業界に革命を起こし続け、彼の建築作品の17作品がユネスコの世界文化遺産に登録されています。